許されざる者 [DVD]
ずいぶん昔、
取引先のおやじと話をしていて、
最近の若い女の子(20年前)の話になった。
「ちゃらちゃらして、
死ぬまでああなんですかね?」
と言うと、
「そんなことはないよ。
彼女たちは、いい人に出会えてないだけだよ」
と答えてくれた。
この人物の懐の深さには、
感服した。
同じことが、
このイーストウッドの「許されざる者」にも
描かれていると思う。
(明らかに本筋ではないが)
まだまだ撮り続けてほしい。
許されざる者 下
いわゆる戦争の功罪を、この作品から垣間見た。
戦争が起きたおかげで実現した出合い。
学校に通えない子供たちのための、寺を場とした青空学校。
これらは、戦争のプラスの側面だろう。
戦争が起きたおかげで人々の心は、もう二度ともとには戻れなくなる。
点灯屋、ねじ巻き屋、左官、車夫、……自分はその道のプロフェッショナルだ、という自分の職業に対する誇りを持ち、そして、困った人に対する同情・憐憫の情を抱き、困った人を助けたい、という美しい心、美徳をそなえた人々。彼らを戦争が直接的に、また、間接的に変えてしまう。
作中、「戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ」という言葉が引用されているが、あらゆる悪を扇動するのは悪徳の人で、実際に行動するのは美徳の人、なのかもしれない。可愛そうだ、力になってあげたい、役に立ちたい、そういう、美しい心をそなえているがゆえに、知らずしらずのうちに、人々は悪の道に足を踏み入れてしまう。背負う必要のなかったはずの罪、抱く必要のなかった秘密を代償にして。
繰り返し場を変え、形を変えて登場するテント。人間のように体の中に骨があるのではなく、体の外に骨がある、という構造。いざというときには、飛べる。カナブンのように。
飛べる、となると、軽そうだ。軽さ、かるみ、というのは、この小説が有している特徴かもしれない。
上林が、「小雪」という騾馬に乗り、安否が絶望視される馬渕を探しに行く、シリアスなシーン。このシリアスな局面での滑稽、郷愁をまじえた描写は、重さ、深刻さからするりと身をかわす、かるさ、かるみが漂う。
――人形の動作は、はじめはぎごちなくみえていても、太夫の語りと三味線の音色が作り出すリズムによって、生命が吹き込まれ、型にのっとって動いているにもかかわらず、ある種の自在感を獲得しはじめる。
「人形」を〈登場人物〉、「太夫の語り」を〈語り手の語り〉、「三味線の音色」を〈登場人物の発話〉に置き換えると、これは、あるいは作者によるこの小説の評言ともなりうるかもしれない。
上巻冒頭で登場した「二重の虹」、「ふたつの虹」のイメージは、たとえば、こんなふうに繰り返される。
(前略)森宮の時間が、以前の速さで流れはじめたかのようにみえた。しかし、じつはもうひとつの新しい時間軸がその下に、あるいは傍に加わって、絶えず旧来の時間を衝き上げ、合流し、渦をつくり、呑み込もうとしていた。
そもそも虹は、「古くは竜の一種と考え、雄(内側の色の濃い主虹)を虹、雌(外側の色の濃い副虹)をゲイ(※)と呼んだ」(『福武漢和辞典』より)という。「呑み込」む、というと、竜のような生き物も連想しなくもない。
「高速で移動する物体の中では、時間がゆっくり進む」。時間がゆっくり進めば、移動する物体は、速く進む? 低速で移動する物体の中では、時間が速く進む? 小説が一つの乗り物だとしたら? 小説が高速で移動すれば、読者に流れる時間はゆっくり進む? 小説が低速で移動すれば、読者に流れる時間は速く進む? ……わからない。
上巻で千春が見た不思議な夢は、下巻において結末を見る。どのような結末か? それは、読んでのお楽しみ。
辻原氏は、「ジャスミン」の中で、死者は数えられない、と書いた。ひとりの人間の死は、数字に置き換えられない。ひとはひとりひとり違う存在だから。「許されざる者」、というタイトルにも、そういうニュアンスが含まれている気がする。
結局、「語り手」としての「私」とは、いったい、誰だったのか、謎のまま終わった。あるいは、彼は、天狗の面をかぶった謎の男だったのだろうか?
※「ゲイ」は、「虫」へんに右側が「兒」。文字化けしたため、カタカナとした。
ジョーカー 許されざる捜査官 DVD-BOX
毎回毎回出てくる犯人は最低の奴で、「裁き」にかけられても仕方がないといつも思っていた。
でもその反面「本当にそうする必要はあるのか?」「他に方法はないのか?」とも思っていた。
このドラマの目的はまさに視聴者にそれを考えさせることが目的だと思う。
「本当の正義とは何か?」「罰って何だろう?」と人はいつも頭の片隅に置いておかなければいけないと思う。
しかし、人は忘れる動物である。
だからこのドラマはそれを考えさせるところに意義がある、そんな作品だと思う。
そういう意味でとてもいい作品だったと思う。
今回のフジ火曜ドラマ枠はどちらもよかったが、一つだけ言いたいことがある。
「ジョーカー」「逃亡弁護士」ともに内容が重すぎる。
テーマは同じでも良いのだけど、どちらか片方は少し気軽に見られる作品にするべきだったと思う
作品の性質上仕方なかったのかもしれないが、そうなら少しマイルドにするべきだったと思う。
許されざる者 上
大河ドラマを見終わったような充足感が得られる。著者の力作!で、並々ならぬ思いが伝わってくる。その上、細かいところまで大量に多彩なものを取り込んでいて、これが絵本ならば、さしずめ安野光雅の『旅の絵本』のように、よく見ると、こんなところにこんな人や物が描かれている、といった感じだった。あくまでフィクションだとは思うが、ジャック・ロンドンが日本とこんなに関わったことが不思議だった。また夏目漱石、森鴎外、田山花袋、頭山満、幸徳秋水なども登場する。それに正露丸も征露丸と書かれ、そういえば日露戦争下で、そういう名前で売り出したんだっけなあ〜といったトリビアも織り交ぜられている。
舞台は著者の出身である和歌山。森宮(しんぐう)と読ませている架空の土地は、恐らく、新宮がモデルなのだろう。主人公は「毒取ル」とあだ名された医師の槇。アメリカでドクトルの学位を得て、カナダで1年経験を積んだのち帰国。その後インドで修業を積んだのち帰国。そこからがいよいよ物語の幕開けとなる。日露戦争前からその後の森宮を中心にストーリーが進んでいく。
タイトルの許されざる者とは、とある恋に落ちた者をさすのだろうけれど、当事者だと2人なので、単数形なのは日本語的意味でなのか、そのうちの片方だけ、本当に1人だけなのか、こういうとき、英語は便利といえば便利だ。
槇には、非常に美しい千春、肺病を患っている建築設計士の勉という親戚がいる。槇がインドに行っている間、千春は何者かに毒殺されかける。その後、槇が帰国してから犯人らしき者が判明し、その後も千春を巡っては、さまざまな男性が思いを寄せ、また身近にいとこだと言う者が現れ、またそこから騒動がわき起こる。
しかし本当の騒動は着々と進められていた。各国のグレート・ゲームや時代の流れで、日本もその時流に乗ろうとしていた。「言葉が、それに対応する現実から遊離し、言葉だけで世界が成り立っているかのように錯覚して、それで人を動かそうとする。アジテーションと狂信的世界のはじまりだった」。そして熊野革命5人団も結成される。
日露戦争が起きると、登場人物それぞれの運命が大きく動き出す。もしあの時、少しでも違っていたら、とも考えられるが、本書では、なるようになるという結果につながっていく。多少、あまりにも多くのことを盛り込みすぎた感があり、散漫な感じがするものの、下巻の後半から、なるようになっていく運命が中心に描かれていくことで、まとまりが出る。(これも予想に違わないため、物足りなく思う人もいるかもしれないが)ただ、和歌山は『紀ノ川』のイメージが強く、『紀ノ川』を読んだ時の感動が大きかったので、これを乗り越えるのは自分の中ではなかなか難しいかもしれない。
許されざる者 [Blu-ray]
近年のイーストウッドの映画は素晴らしい。
それは周知の事実となったが
それは一本一本の映画の価値以上に
イーストウッド自身の演じた自分に辻褄を合わそうとしているところにあると思う。
そして今日見直したこの映画あたりからそれははじまっていたのだと確信した。
西部劇から名を挙げたイーストウッドは撃つ事で人が死ぬ重みを描かずにはおれなかったのであろう。
これこそ作家というものであろう。
エンターテイメントも失わずに自戒も描いたいい映画です。
画質もよくなっているようでした。