ヴェルディ:歌劇「椿姫」全曲
ルキノ・ヴィスコンティ演出、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮で上演され、戦後のスカラ座における最高の舞台と謳われた、伝説の1955年の『椿姫』のライブ録音です。
この舞台の様子は、写真集などからも豪華で迫力の舞台振りが伝わりますが、この録音があることで、その熱気を体感することが出来ます。特にカラスのヴィオレッタは、第一幕では驕慢な高級娼婦、第二幕では愛を諦めることを強いられる悲劇の女性、そして第三幕では、瀕死の病人でありながらなおも生きようと懸命にもがく人間…というように実に多彩で奥深い人物描写を声によって実現しています。
カラスの声で、ヴィオレッタが決してフィクションの人物ではなく血の通った生身の存在であると実感できます。
『椿姫』の録音は数多いですが、これを聞くと他の歌手のヴィオレッタは聞けなくなってしまいました。1955年の録音ということもあって、現在の私達が耳に馴染んでいるようなクリアな音質でもなく、一部聴き取りにくい箇所もあります。しかし、そんな技術的な欠陥を飲み込むほど、この録音はパワーを秘めています。
カラスファンのみならず、『椿姫』ファンにも薦めたい一枚です。
怒りの葡萄 [DVD]
なんと言っても、この映画のすごいところは、
「この世にそびえる銀行家(そのへんの銀行に勤めるおじさんのことではない)のことを、水面下で強烈に批判していることである。」
農業が機械化(トラクター等の機械化)により、大規模農業に変わっていき、小作農のような農民がその農地から強制的に(暴力的に)追い出される。農民の一人がこのことに憤慨し、だれが、こんなことを、始めたんだ?と憤る。トラクターの運転手は俺は○○に頼まれた、じゃあ、その○○はだれに頼まれたんだ?なんとか銀行の奴だろう。じゃあ、銀行の支店長だな、いや、その支店長もその上のボスに頼まれているハズだ・・と、命令の川上に行き、命令の首謀者を暴こうとするが・・
追い出された農民は、あてもなく放浪。そんな時、いちまいのビラをみる、「カリフォルニアの農園で、800人の作業員募集」これで、彼らはカリフォルニアでの夢と希望を見つけ、生きる目標を見つける。
しかし、旅の途中、他の似たような旅人と出会う、そこで、その旅人は、「カリフォルニアには夢も希望もない、あるのは地獄だけだ。あそこには行くな!」と、なぜなら、そのビラはアメリカじゅうにばらまかれている。アメリカじゅうの職にあぶれた下層階級が、怒涛のようにカリフォルニアに押し寄せているんだ。800人募集のところに、何十万人も群がってきてるんだ・・。お前さんたち、バカじゃないだろうから、わかるよな?この意味?
しかし、行くあてのない、一行は、一度は夢見たカリフォルニア行きを続ける。道中、逃げ出すもの、旅の途中で、命を落とすもの・・過酷な旅は続く。
ようやく、夢と希望のカリフォルニアの着くが、やはり、忠告通りの地獄であった。劣悪な環境と労働条件の中、信じられない低賃金で、雇われる。
文豪、スタインベックの作品である。細かい描写や文学的な会話、多くの悲劇と人間の醜さ、殺戮などが、2時間の中に凝縮されている。その辺は、映画を観て感じていただければ幸いである。
スタインベックやジョン・フォードが表現したかったのは、「この世には、陰に隠れた支配者がいる。(大統領とかじゃない)我々のように支配されるべく生まれた多くの一般人は、彼らに翻弄されて、過酷な環境の中で、なんとか、いきていくしかすべがない・・。」
そのような、いわば、悲壮感を超えたあきらめや敗北や屈服に近いようなテーマを感じるのは、私だけであろうか?
単純に考えても、農業の機械化で、大規模農場がスタートすれば、今までの小作農の農民はいらなくなる。「余剰の農民をどうするか?」「そうだ、いいアイデアがあるぞ!カリフォルニアの農場で、安く働かせよう。だから、アメリカじゅうに甘い夢を抱かせるようなインチキ募集広告のビラをまこう。」「そうすれば、余剰の農民は怒涛のように集まり、彼らを、安い賃金と、過酷な環境下で働かすことができる。我々、支配者は、農地の機械化と西海岸の農園でボロ儲けできるのである」・・このような、密談が支配者の間で、かわされていたに違いない。
普通の人は、「農業の機械化→小作農の追い出し」と「募集広告」「西海岸の地獄の農園」をまったく、別の出来事、偶然の出来事、さらに、この映画そのものを悲劇の映画(ついていない家族の悲劇の物語)と理解するだろう・・
しかし、「農業の機械化」「農民の追い出し」「甘い夢を抱かせる募集広告」「地獄の農園」は、すべて、つながっているのである。仕組まれたのである。最初に言った、この世の支配者が、すべてを仕組み、裏で高笑いをしているのである。このことを、スタインベックやジョン・フォードは言いたかったのである。フォードのような大物監督であれば、支配者連中のことは、十分に知っていて、この作品を創ったと思われる。
「農業の機械化」「農民の追い出し」「甘い夢を抱かせる募集広告」「地獄の農園」それぞれの首謀者(経営者)は上に行けば、ひとつに収れんされるのである。
蛇足だが、スタインベックは当時の一般的なアメリカ人をひじょうに醜く、悪人に描く天才である。
もう一作、「二十日鼠と人間」という映画についても、当時の一般的なアメリカ人を醜悪に描いている。
たぶん、醜悪なアメリカ人に傷つけられた経験が彼にはあるんだろう。リアリティがあるからそう思うのだが・・
怒りの葡萄 [DVD]
殺人容疑で入獄していたトム・ジョードは、仮釈放で4年ぶりに故郷オクラホマの農場に帰ってきた。ところが、小作人として働いていた一家は凶作の土地から立ち退いていた。叔父の家で家族と再会したトムは、みなでカリフォルニアの大農場に行き、職を求める。ところが、ジョード一家を待ち受けていたのは、あまりにも厳しくて残酷な現実だった。・・・
原作は、ピューリッツァ賞を受賞したアメリカの文豪スタインベックの小説です。大恐慌時代という厳しい現実の中で、猛烈な砂嵐で畑の収穫がなく、先祖代々住んできた土地を会社に奪われたジョード一家の姿が切々と描かれています。あてもなく家族の安住の地と生活を保障する仕事を求める労働者たちの姿に、やるせない気持ちになりました。大家族がオンボロのトラックに家財道具を積み上げて、カリフォルニアを目指して果てしない荒野を進んでいく。そういった場面の中で、ジョード一家の絆が強く伝わってきました。特に母親のラストの言葉は、物静かな中にも家族を守り抜こうという固い決心が感じられて、素晴らしい締めくくり方だと思います。悲惨な時代の中で生き続ける人間のたくましさ、奥底の強さを描いた「人間讃歌」だと思います。
怒りの葡萄 (下巻) (新潮文庫)
本作の下巻で特に面白いのは、やはり第二十三章辺りからのダンス・パーティが筆頭だろう。
アルがうっかり婚約者のいる女性を冷やかしてしまってそそくさと退散したり
警察とグルになってわざと揉め事を起こそうとする一団がスマートに追い出されたり、
とにかく人がよく動き、どいつもこいつも憎めない。
キャンプの警備員(だっただろうか)に説教師・ケーシーが殺されるのを目撃したトムが
その男を殺してしまう場面。ここで草むらに隠れたトム・ジョードが母親に語りかける言葉、
「されどひとりにして倒るる者は憐れなるかな。これをたすけ起こす者なきなり」
「パンを食わせろと騒ぎを起せば、どこであろうと、その騒ぎのなかにいるだ。〜(中略)〜
それに、おれたちの仲間が、自分の手で育てたものを食べ、自分の手で建てた家に住むようになれば、
そのときにも──うん、そこにも、おれはいるだろうよ」この言葉には作品全体を貫くテーマが凝縮されている。
そして、赤子の死産直後に「シャロンのバラ」が餓死寸前の男に乳房を含ませる
余りにも有名なクライマックス。ここまで農民たちとともに旅を続けた読者は
人間の、生命の、あくまでも生き抜こうとする強固な意志に圧倒される。
人びとの心に実る「怒りの葡萄」は、生き抜く意志の象徴でもあるのだと私は思う。
生きる意志のないところに怒りが生じるはずはないのだから。
怒りの葡萄 [VHS]
文豪ジョン・スタインベックの小説をジョン・フォード監督がみごとに映像化した映画史上に残る不朽の名作。政府の経済政策によって立ち退きを余儀なくされた主人公一家が新天地を求めて奔走する物語だが、仕事の需要と供給のバランスが著しく崩れていた当時のアメリカ社会で、過酷な労働、安い賃金、少ない仕事などの悪条件によって絶望的な現実を経験していきます。数少ない求人に対して大勢が応募してくるため、ひとりひとりの賃金が安くなってしまい、これに反発した労働者たちはストライキや暴動を起こそうとして、一家も巻き込まれてしまいます。映画全体を通して妥協を許さない徹底したリアリズムで描かれていますが、ラストシーンのヘンリー・フォンダ扮するトム・ジョードが母親の元を去るときに語る言葉は、象徴主義的であり、哲学的であり、宗教的であり、忘れられない名台詞です。豚のように生きる人々、少数の大地主と10万の飢えた農民、この世の中の一体どこが間違っているのか。この映画はそれを問いかけていると同時に厳しい現実に直面している労働者たちの人間としての尊厳を高らかに謳いあげた、優れた精神性を示した作品といえるでしょう。