テヘランでロリータを読む
いやぁ最近「ロリータ」読んだだけに、自分の読みの浅さ、想像力の無さに絶望的になった、これ読んでみて。
「『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある」「つまり彼女は二重の被害者なのだ。人生を奪われただけでなく、自分の人生について語る権利をも奪われている」。
もちろんロリータ目線から物語を捉え直す試みはしてみたよ、でも、テヘランで「ロリータ」を読むほどには切実じゃない。著者はさらにこう畳み掛ける。「ハンバートが悪人なのは、他人と他人の人生への好奇心を欠いているからだ」「ハンバートは大方の独裁者同様、みずからの思い描く他者の像にしか興味がない」。ぐうの音も出ない。明らかに俺は、“イラン人の人生への好奇心を欠いていたし、みずからの思い描く他者の像にしか興味がなかった”のだ。訳者あとがきには「イスラーム革命後のイランは、生活の隅々まで当局の監視の目が光る一種の全体主義社会となり、とりわけ女性は自由を奪われ、厳しい道徳や規制を強制され苦しんでいた」ってある。そんな社会の中で、自らの状況に擬えて読まれる「ロリータ」なんて、本書を手に取らなければ永遠に想像出来なかった。もちろん「ロリータ」は様々な読み方が出来る訳で、翻弄されるハンバートを老いた英国、手玉に取るロリータを新興国アメリカのメタファーとして読む、なんてのも間違いじゃない。ただ、テヘランでの「ロリータ」の読まれ方を、少しでも、一時でも想像してみる力は持っていたいなぁと思った。日本で生きていると文学の価値なんてどんどん軽くなっていくけど、まだまだ文学の重さ、特権性が存在する国もある。
この本、「ジェイン・オースティンの読書会」とあわせて読むと、読書ってものを通したお国柄の違い、お国柄による文学観の違いを感じることが出来て面白いかも。