90’s FILMS [DVD]
中村一義の90年代に発表されたシングルを中心としたビデオクリップ集。今は100Sとしてバンド活動を展開していますが、当時はほとんどを自身が演奏しており、歌詞といい曲といい非常にクオリティが高い作品が並んでいます。初ライブではバックの高野寛が円熟味のあるギターを聴かせてくれています。個人的には音楽おたくの神様的存在と崇めています。
ERA
セカンドアルバムの再評価につながった彼のマスターピース。
彼のキャリアは、最初のマキシシングル「犬と猫」が、ロック評論家の重鎮、渋谷陽一に絶賛されて始まり、その後も定期的に素晴らしい曲をマキシシングルとして発表する彼のスタイルで、新しい時代の到来を自分のような30過ぎのロックファンにも予感させた。その後、ずっと彼のシングルの発売を楽しみにしていたが、彼への手放しの評価は、セカンドアルバム が一枚めの延長上にあったことで、自分の中でとまっていた。
しかし、この3枚めのレコードERAは、ポールウェラーの90年代の傑作「スタンリーロード」と並ぶ、天才の名に恥じない傑作だ。単純なリフ、この時期最強のロック「1、2、3」で幕をあけ、後半は一気呵成に名曲「君の声」ゴスペルの「ハレルヤ」、すべての前の曲を振り払うかのような「ロックンロール」、そして暗示的な「素晴らしき世界」で幕を閉じる。「ショートホープ」、「威風堂々」。中盤の曲にも一曲として駄作がない。このレコードに収められている曲の数々の多彩さ、またそれを自分の曲として完成させた彼の力はすごい。
彼の魅力として、この若さで(僕が30代ということを前提にして)、音楽の造詣が深さにあると思う。何度繰り返しこのレ!
魂の本 ~中村全録~
幼少時代の壮絶な家庭環境、青春時代の音楽への目覚め、
そしてデビューから今に至るまでを対談形式で収録しています。
「そんなこと喋っちゃっていいの?」と心配になるくらい、
赤裸々にこれまでの人生を語っているのですが、
この道あってこそあの音なんだと、
勝手に納得したりする部分もありました。
読後に『金字塔』を久々に聴き返したのですが、
メロディーや歌詞がより深く聴こえてきます。
やっぱりファーストは特別ですね…。
正直、ファン以外にはおススメは出来ないですが、
少しでも中村一義の音楽を聴いたことがあるのであれば、是非!
浄土三部経〈下〉観無量寿経・阿弥陀経 (岩波文庫)
浄土三部経は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三部から成る浄土教の根本教典。 阿弥陀仏による人間の救済とその実践としての念仏の教えと功徳が説かれている。
「無量寿経」は、釈尊が王舎城において、み弟子の阿難に他力の法門を説かれた教典(上下二巻)衆生が浄土に往生するには、念仏を唱えることによるもの(念仏往生)と、他のいろいろな行業によって往生することの布達があること、さまざまな果徳を説く。
「観無量寿経」は、「無量寿経」に説かれている教えを具体的に示した教典で、物語の形をとる。 夫人に十方浄土の阿弥陀仏の世界をまのあたりに見せた。釈尊は、韋提希夫人に心をしずめ、阿弥陀仏を念じることによって浄土を観じていく、観想の実践を勧められた。
「阿弥陀経」は、釈尊がみ弟子の舎利弗に、阿弥陀仏とその世界である極楽浄土の荘厳とをつぶさに説かれた教典。極楽浄土に往生するための実践として、南無阿弥陀仏の名号をとなえる念仏の教えを示している。
浄土三部経は、人間の欲の世界を否定することなく、人間の救いを説いている教典。この浄土三部経に感銘・展開・発展させたのが、中国では善導大師、わが国では、法然上人。 浄土三部経は浄土宗の根本教典。
本書は親しみ深く「漢文漢訳」を初めに掲げているところがいい。「わたくしが聞いたのであるが、…」これがお経の翻訳の始まりである。漢訳には流布本を採用、サンスクリット原典を参照、読み下している。「我聞如是(われ、かくのごとく聞けり)」巻末には、梵文和訳の註が丁寧に付されている。
浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)
10円玉の表には宇治の平等院が刻印されている。平等院は本尊は阿弥陀如来である。そしてもちろん、鎌倉の大仏も本願寺も、阿弥陀である。
阿弥陀とはアミターバである。
無限の光明をもつ者であり、釈迦以前に悟りを得た者である。
私の知り合いの霊能者が臨死体験の時来迎図さながらにやってきたと語ったことを思い出す。
私は般若心経に魅力を感じ、禅宗にも魅力を感じて、阿弥陀には興味がなかった。せいぜい死後に会う者でしかなかった。
しかし、気功法で気の圧力とか、不思議なことを様々やってみたあと、ある種の気功法に縁があって、個人的にいろいろ試してみた。
すると、この浄土三部経はなかなか面白い事実を表していると思うようになった。
第一に阿弥陀仏は光明仏である。これはなかなかに核心をついている。
この光明は心に届く光明として超日月光であり。
怒り、不安が消える清浄光であり。
金属、繊維、壁面を通過するので、無碍光であり。
どこでも、光を出そうと思えば出る無辺光である。
たとえば、人は人間関係の不安に至っては、それを論理的に解決しようと試みて、相手に説得とか、根回し等の解決方法の実践を思考する。
しかし、根本たる不安や恐怖が、雨の粒が乾くように光明によって蒸発すれば、必要な解決方法しか人は実践しなくなり、後腐れもない。
それは、不動心を得るとか、堅固な自我をつくることによって正常な思考・心を保つということではない。それも必要などきもあろうが。
弱い心であっても、この光明によって人は自然と「本来の勇気と知恵」を駆使する。心とは清浄化されるというそれだけで、強い人と同じか、よりしなやかに、強く活動できるのである。
まさに諸仏が阿弥陀仏を礼賛するのも頷ける。