中島敦 (ちくま日本文学 12)
最近、太宰さんからなるべく離れようと、努力してきたつもりなのだが、いつの間にやら私は、中島敦と太宰さんとを並べてしまっている自分に気付く(太宰さんの文章は、「青空文庫」より引用した)。
一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。(太宰)
身を全うし妻子を保んずることをのみただ念願とする佞人ばらが、この陵の一失を取上げてこれを誇大歪曲しもって上の聡明を蔽おうとしているのは、遺憾この上極まりない。(中島)
日に八度色を変ふとふ熱帯の青き魔術師カメレオンぞこれ(中島)
〈変身〉願望は、両者とも抱いていた節がある。
ちなみに太郎の仙術の奥義は、懐手して柱か塀によりかかりぼんやり立ったままで、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。(太宰)
何事をも、(身の程知らずにも)永遠と対比して考えるために、まずその無意味さを感じてしまうのである。実際的な対処法を講ずる前に、そのことの究極の無意味さを考えて(本当は感ずるのだ。理屈ではなく、アアツマラナイナアという腹の底からの感じ)一切の努力を抛棄してしまうのだ。(中島)
「龍になりたいと本当に思うんだ。いいか、本当にだぜ。この上無しの、突きつめた気持ちで、そう思うんだ。他の雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」(中島)
「河馬」と題された一連の詩群は、文字でつづられた動物園だ。
「幸福」という作品は、〈夢〉にまつわる不思議な話だ。
タロ芋を供えて彼が祈ったのは、椰子蟹カタツツと蚯蚓ウラズの祠である。この二神は共に有力な悪神として聞えている。パラオの神々の間では、善神は供物を与えられることがほとんど無い。ご機嫌をとらずとも祟をしないことが分っているから。
〈変身〉といい〈動物〉といい〈夢〉といい、子供が好みそうなテーマに、中島が取り組んだ、というのは、彼の子供好きが生んだ賜物だろうか? あるいは、彼自身、子供じみていたから?
展覧会の絵&子供のアルバム
『展覧会の絵』という曲は、私の世代だとEL&Pか富田勳が入り口だった場合が多いと思う。
それほどこの曲はあの『プロムナード』を始め、魅力的かついじりがいのある旋律に溢れているということになる。
上記の二作はおそらくラヴェル編になるオーケストラ・ヴァージョンをさらに編曲し直したものだろうが、本来のピアノ組曲もやはり演奏家それぞれの個性をあますところなく曝け出す(ことのできる)稀なる曲だろう。つまり、誰が弾いても同じようには決して聞こえないのだ。
そして今日初めて聞いたフェルツマンの『展覧会〜』
最初から速めのアプローチ、そしてくっきりと音をつくりだし、緩急自在にテンポを変えていく様はまるでジャズのインプロヴィゼーションを聞いているかのような面白さに襲われる。
そして誰もがここぞ!とばかりにぶつけようとする『キエフ〜』への驚くほど新鮮な切り込み方はほんとうに素晴らしい。
バッハを録音しているらしいけれど、ぜひ聞いてみたいと思った。