秀吉と利休 (新潮文庫)
この作品は決して難解ではないが、独特の硬質な文体は、はじめ、斜め読みを許さないある種の圧迫感を読者に感じさせる。しかし、読み進めるうちに、利休という歴史上の人物は、日常生活のさりげない細部と心理の描写のなかでまざまざと造形され、利休とはまさしくそれ以外の人ではありえなかったろうと読者は確信するに至り、硬質な文体から感じた当初の圧迫感は、実は著者の尋常ならざる作家魂の厳しさに他ならなかったことに気がつく。この小説の中には、黙読するうちに思わず朗読して確認せずにいられないほどに格調高く、悲劇的な描写が数多くある。このような小説はそれほど多くはない。
権力への阿諛と矜持に引き裂かれる自我は、この作品だけでなく「迷路」のテーマでもあり、時代を問わず、常に私たちの矛盾でもある。野上弥生子という、戦前、戦後の日本社会を誠実に見届けた強靱な知性によって始めて可能な傑作というべきであろう。
ギリシア・ローマ神話―付インド・北欧神話 (岩波文庫)
1855年に出版された”The Age of Fable”(伝説の時代)という著作の邦訳。全訳ではなく、ギリシア・ローマ神話に北欧神話など少しのおまけをつけた前編の訳であり、後編は「中世騎士物語」として別に読むことができる。末尾の「改版にあたって」によると初版は1927年(昭和2年)となっているが、冒頭の、夏目漱石の手紙(「野上八重子様」になっている)は大正2年(1913年)のものである(訳者は1885年生まれなのでまだ20代!)。「巻末に」の記述からも、初訳は1913年に上梓されたはずである。ともあれ最終版は1978年、90歳を超えてなお矍鑠たる文章を残した彼女の才気には恐れ入る。
小説家の訳であるが、衒いのない平易な文章であり、表記等にわずかの乱れを残すものの、素晴らしい本である。ギリシア(ローマ)神話はヨーロッパ知識階級の常識であり(医学者の記述を見る限り結構怪しい人もあるようだが)、ヨーロッパ文化を知るのにその知識は欠かせない。私としては、ここ数年エジプト史に親しんだ折に、ギリシア神話を何とかモノにしたいという積年の願望を芝崎みゆき「古代ギリシアがんちく図鑑」を入門書として(他にも何冊かの本を読んで)ようやく叶えた、その予備知識を元にして挑んだが、レベルとしてはちょうどよかった。まったく何の準備もなく読んでも十分に理解できる文章ではあるが、神々のつながりや背景が必ずしも懇切に説明されているわけではないから、初心者はまず他の本から始めるのがよいと思う。
但し、「その他の神話」部分はかなり投げやりな印象である。エジプト神話は杜撰の極致、また、キリスト教の立場からの言及が目立つようになり、著者の本性がほの見えている。ギリシア・ローマ神話では淡々と記述していたのに、ヨーロッパ本流を離れた途端に差別意識が前に出たのか。
中世騎士物語 (岩波文庫)
「西欧の芸術文化を理解するにあたって、なくてはならない知識」は神話に
次いで騎士物語である、との考えのもとに翻訳出版された書。
原典は米国のThomas Bulfinch (1796-1867)のThe Age of Chivalry(1858)
で、いささか古いが、広範囲にわたる記述で、騎士物語に関して幅広い知識が
得られる便利な本である。
まず、当時の騎士や社会に関して概略的に述べた後で、リア王なども登場する
英国史を概観し、続いて『アーサー王の死』をもとにしていると思われる、
一連のアーサー王物語群が展開される。さらに、ウェールズの中世騎士物語集
であるマビノジョンが語られ、マロリーのものとはまた違った騎士物語が堪能
できる。
背景的な知識と、物語とが同時に楽しめる一冊。字が小さいので、ワイド版も
お薦めする。