The Sidewinder
The Sidewinder。
この曲のかっこよさはどうだろう。
何といっても
Bob Cranshaw(b)の渋いイントロが、
この曲を特別なものにしていると感じるのは
私だけだろうか。
近年、よくカバーされるが、
オリジナルを超えられないのは
「ボブの渋いイントロ」がないから。
というのは言いすぎか?
セブン [Blu-ray]
かなりレベルの高いブルーレイソフトの一つです。
音声はDTS-HD MASTER7.1ch 英語 そして日本語吹き替えはDVD版、そしていくつかのテレビ放映版です。(DVD版はステレオ、テレビ版はモノラルで収録) DTSでは銃の発砲音のリアルさが増しており、また重低音が強調された効果音、BGMによってシーンの雰囲気がとても高まっています。
映像に関してもDVDとは比べ物にならないほどの高画質を実現しています。 暗いシーンが多い映画ですが、フィルムグレインがほとんどなく、色がつぶれて見えるところもほとんどありませんでした。 またシーンによってはDVD版とは明らかに色味が違うところもあり(DVDのクォリティでは限界があって妥協していた点をブルーレイ版では本来の色合いで再現した?)全く違う印象を受けることもありました。これは特に暗すぎて色がつぶれてしまうであろうシーン等において顕著に表れていました。また画質の向上により犯行現場の不気味な雰囲気や、空気、町の不快感などが感じられるほどでした。ブルーレイ化に当たり制作側がきちんと調整を施したということの表れであると思います。
DVD版発売時には東宝からの発売であったため、値段も高く再生産もされなく入手が難しかった本作がこのクォリティ、そして低価格で購入できるのは非常に評価できると思います。
マンディ・ナイト・アット・バードランド
1958年4月21日の録音です。メンバーは、H・モブレー(サックス)リー・モーガン(トランペット)レイ・ブライアント(ピアノ)カーティス・フラー(トロンボーン)総勢7名・・・・今から見るといやいやすごいメンバーですね!!!
演奏曲目、ウォーキング、オール・ザ・シングス・ユー・アー以下スタンダードナンバー全4曲。近くにあるアルバムを見てみると、モブレー1955年初リーダー作発表、モーガン1956年初リーダー作発表と、時期的に見て上り坂に会った事が判ります。
それに違わず、各自のよさを存分に発揮した、熱の入った、炎のような演奏を披露しています。ハード・バップの好きな人には堪えられません。聞いていると身体が、リズムに乗って自然に動き出します。
なおこの後、モブレーは、1965年ディッピンを発表し、再びモーガンと競演し、リカルド。ボサノバの快演を残すのです。馬が合ったのかな?
後になって、たくさんのリーダー作を残すすごいメンバーの若かりしときの魂のこもった記念碑的なアルバムです。
なお、アナザー・マンデー・ナイト・アット・バードランドは、オリジナル曲中心で、これも必聴です。
ショーシャンクの空に [DVD]
この映画程、人によって受ける感動の類が違うといった作品もないと思います。
人によっては、その爽快さに感動します。
人によっては、希望を持つことの素晴らしさを改めて感じます。
人によっては、他人にまったく頼られないことの辛さを痛いほど感じます。
私はというと、爽快さや他人に頼られないことの辛さはもちろん(実は、声高に言われている希望と言うのはあまり私には感じられませんでした)、
しかし、
それ以上にアンディーがショーシャンク刑務所の雰囲気を変えていく、そのストーリーにただひたすら魅せられていました。
これは少数派の意見かもしれませんが、私が特に好きなシーンは、アンディがビールを頼んでレッド達がビール飲み、その姿を満足そうにアンディが見つめているシーンとか、刑務所内でアンディがフィガロの結婚を流すシーンといった、俗世とはかけ離れた刑務所内に俗世の香りが垣間漂うシーンです。
アンディは、まるで知り合いが誰もいない学校に転校してきた転校生のよう。
自分の趣味を復活させるために、知り合いにならざるを得なかったレッド、しかし少しずつ接していく内に、
いつしかレッドとその周りの人間達と仲良くなっていく。
また、勤勉家なアンディは本の少なさに不満を持ち、囚人用図書の予算を別にもらう手紙を送り続ける。
私はこのアンディの姿に、「刑務所にいることわかってんのか、こいつ?」と皮肉りながらも、
刑務所にいることを不安に思わせない彼の姿から非常に強い精神力を感じました。
「隣の芝は青く見える」とはいったものですが、刑務所で自分の趣味に没頭する時間があったり、刑務所内の雰囲気を変えようとする彼は「住めば都」を地で行く内なる強さを秘めた男です。
アンディがトニーに「ここでは皆無罪」とジョークを言うシーンなんて、「ああ、アンディ本当に強くなったなぁ」と何度も嘆息し、
彼がショーシャンクに本当に馴染んだことや作中での膨大な時間経過に何度もしみじみさせられます。
刑務所内の物語なのに「脱獄」という泥臭い2文字を微塵も感じさせない、
この奇妙で不思議で、厳しくも優しい風が吹く物語……。
他にも書きたいことがありますが、ありすぎるのでやめときます。
他の刑務所モノの傑作では「ロンゲストヤード」「暴力脱獄」などが思い浮かびますが、やはり私はここに帰ってきてしまいます。
映画というメディアの枠を越えた、最高の静の物語の一つ、1度ぜひ観てください。
もちろん、脱獄モノとしても十二分に面白いです。ここからは完全ネタばれなので未見の方は絶対に読まないで欲しいのですが、
2回観ると、アンディが看守の心を掴んだ本当の意図がはっきりとわかり、
アンディの脱獄計画の本当の順序がわかります。
ただ、頭の良い人は1回でこの計画の確実性が理解できているかと思います。
私はアホなので、最初の抜き打ち検査でなぜポスターを壁から剥がさなかったのか?変じゃないか?……そこで思考停止しました。
が、2回目でやっとわかりました
(ちなみに、こういうのを理解したいとか粗探しをしたいからとかの下らない理由で2回以上観た訳じゃなくて、単純に好きだから何度も観ただけですよ……)。
ここからはあくまで一個人の妄想ですが、
まず、私は勘違いしていました。アンディはリタのポスターを手に入れてから穴を掘り始めたのではなく、
おそらく抜き打ち検査でポスターが剥がされないのを確認してから穴を掘り始めたのではないかと思います。
そしてもう一つ、ロックハンマーを聖書に隠していたのに、最初の抜き打ち検査で所長がアンディの手から聖書をとったときに所長はなぜ気付かなかったのか、とも疑問に思ったのですが、重さではまず気付かないでしょう(紙って結構重いですから、ロックハンマーを隠すスペースの分だけ切り取った紙の重さとロックハンマーの重さの差は人にはわからない程度なのだろうと思います)。
また、じゃあ聖書を開いてたらどうするんだ、とも疑問に思いましたが、おそらくアンディは趣味の石削り?のためだと言うつもりだったのでしょう。もちろん、ロックハンマーの存在がばれて石削りのためだと言っても怪しまれ、万が一ポスターを剥がされてもまだ掘り始めてないわけですから、アンディはへっちゃらです(ロックハンマーは取り上げられるでしょうが、またレッドに頼めばいいだけです)。
とまぁ、結局はポスターが剥がされるかどうかだけが重要なわけですが、実際ポスターを剥がされない自信があったのでしょう。
一つは、アンディが無料書類作成の件で看守のちょっとした関心と信頼を得て、更にその看守を通じて所長の関心を得ることも狙っていたのでしょう。人間、関心や興味を持っている相手の嫌なことは普通したくないですよね?アンディはそこをまず利用しました(部屋に貼ってあるポスターを剥がされるのなんて誰でも嫌です)。
そしてもう一つ、これがポスターを剥がされないことに自信を持っていた最大の理由だと思いますが、
そう、ポスターに載っている人間が1940年代(アンディが入所したのは1948年)、一世を風靡していたリタ=ヘイワースというマドンナ女優であったことです。
つまり、こういうことです。
刑務所の劇場ではリタの映画は大人気、
囚人はもちろん看守達も彼女のファン、或いは有名な女優だという認識ぐらいはしていて、そしてこう思うわけです。
「この女性のポスターを剥がすのは、男として無粋すぎる」と。
原作の題名「刑務所のリタ・ヘイワース」の真の意味がこのときやっとわかりました。
それは、リタの存在感なくしてこの計画は成しえないということです。なんと素晴らしい。
後はもう、アンディの勝ち戦のようなものです。
真面目に所長の言うことを聞いて怪しまれないようにし、また図書用の予算を請求する手紙を送り続けたのは、
自分は刑務所に依存していて、脱獄する気などないというアピールもあったのでしょう(もちろん心の底から刑務所の雰囲気を変えたい思いも強くあった)。
他にも、時代に合わせてポスターの女優を変えて、単にキレイな女優が好きでポスターを貼っているような人間を装って(ポスターの女優が単純に好きだった思いもアンディにはあったかもしれませんが)常にポスターを貼っていることを怪しまれないように気を配ったり(同じ女優のポスターをいつまでも貼ってあるのは逆に変だから)と、これ以上にないくらいの念の入り用です。
そして脱獄。お見事。
不正の暴露などの件は、アンディにとってはトニーを殺されたことへの仕返しで、当初の予定には含まれていなかったのでしょう。
とりあえず、アンディのしたたかさ、スクリーンとポスターにしか登場していないリタの存在感に乾杯。
とは言っても、私の意見は所詮ただの妄想なので、実際はもっと不確定な要素に頼った、
ご都合主義でないと成功しないような計画だったかもしれませんし、
或いは自分の妄想を遥かに上回ったもっと確実性のある計画だったのかもしれません。
何にせよ、私たち観る側に脱獄計画の確実性を自由に想像させるくらいの余地が作品内にあることは確かです。
ただ最初に言ったように、私には実際観ている間は到底「脱獄」の2文字が思い浮かんできません。
おそらくアンディが、脱獄計画を進めながらも、仲間達と過ごす時間、図書館ができたことによってショーシャンクが変わっていく様子、高卒の資格を採らせる手伝いができること、高卒資格を採れて喜ぶ囚人の姿、
他にも、作中では描かれていない囚人達が時折見せる人間の美しい部分、そして、自分が頼られるということの真の喜びを知り、
それらを手放すのが惜しくて、
徐々に脱獄の意識が薄れていったからだと思います。
言い方は悪いですが、作中レッドが語った様にアンディが脱獄を決心したのはトニーが殺された事実、またそこから感じた人間の嫌な部分が強すぎたからだと思いますし、
逆に言えば、もしトニーが殺されなければ(それは不自然な流れなのであり得ませんが……)、アンディはきっとショーシャンクに残ったままだったと思います。
壮大にして完璧な脱獄計画、唯一の誤算は、
自分の手で少しずつ俗世に近づいていくショーシャンクの様子、頼られることの喜び、そして、かけがえのない仲間達、
これらによって決心が大きく揺らいでしまったことなのかもしれません。
アンディにとってそれは、さぞかし嬉しい誤算だったことでしょう。
(それ以前に、元を辿ってみれば彼が脱獄計画を思いついたのは、ロックハンマーで壁に文字を刻んでいたら、たまたま壁の脆い部分を見つけたからであって、やはり彼は脱獄計画を思いつく前から、「住めば都」精神で刑務所生活を過ごすつもりだったと思われます。やっぱり、この作品は脱獄がメインとは私には言いにくいです)
見境がないくらいの長文・感想文になってしまい、本当に失礼しました。
最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございました。
ミュータント・メッセージ (角川文庫)
現地のアボリジニ協会から非難されているそうですが、それがイコールこの本がインチキ本という事なのでしょうか?そもそも、本書に登場する伝統的な古来からのライフスタイルを頑ななまでに守っているアボリジニと協会でデスクワークをしている現代的なアボリジニの間に意識の隔たりがあっても不自然とは思えません。
少なくとも私は本書からネガティブな印象を得ず、正しいメッセージを受け取ったと思っています。