東京大学で世界文学を学ぶ
作家・辻原登が2009年春から夏にかけて東京大学で14回行った近現代小説の講義をもとに編んだ一冊です。その分野の専門家にとってどれほどの価値があるかは分かりませんが、文学部出身でなく、ただ手当たり次第に興味を引かれた古今東西の小説を手にして生きて来た私にとっては、ここに書かれていることは大変新鮮で刺激的なものでした。
近代文学が個人の混沌とした内面を言語で表現することを重視して発展してきたというのはなるほどと頷ける点です。そこに二葉亭四迷ら明治の近代作家たちが大いに悩んだ姿を思うに、私たちの先達たちがたどった苦難の道の遥かなること、そして豊かなることを思わざるをえません。
後段、『ドン・キホーテ』『ボヴァリー夫人』『白痴』の3大小説を読み解きながら進める文学論は知的冒険の旅を味わう思いがしました。まさに著者が記す次の通りの読書体験を味わうことの興奮を再認識したように思います。
「読むという行為。向こう側に小説の中を流れる時間があって、そしてこちら側に我々の生きている時間があり、それが、読む時間の中で一つになる。この時間の感覚が『リアル』というもののほんとうの意味だと僕は思います。芸術を鑑賞するときのリアルというのは、まさにそういうふうに、我々が生きている時間と作品の中を流れる時間が一つになったとき。その時、我々はほんとうの意味で感動する。それがリアルです。」(178頁)
6年前に読んだ著者自身の小説『枯葉の中の青い炎』を執筆するに至る道程や、去年手にした『抱擁』に関するパスティーシュ論が記されていた点も大変興味深く読みました。
古典文学を何か一冊手にとって、この本に書かれていたことを確かめてみたいという気にさせる書でした。
浮雲 (新潮文庫)
初めての言文一致態で書かれた小説。当時は『当世書生気質』、『滝口入道』など擬古文調の文章で小説を書くのが当たり前だったため、この本は革新的であり、現在でも文学的にも歴史的にも大変価値のあるものであると思う。ただ、言文一致と言っても現代の小説並みではなく、落語っぽくおもしろおかしく節を付けて茶化しているような所があり、擬古文よりはましだが、やはり若干読みにくい。
貧乏ではあるが頭の切れる書生、内海文三を通して当時の風俗を描写した作品。居候をしている娘のお伊勢に惚れてあくせくしたり、免職を食らって職を探して奔走したりと出来事の正確な描写が例の節を付けた文章と相まって芝居かなんぞの様に展開していくのはなかなか面白い。一昔前の言い回しが多く注釈が非常に多いのが気になるが、それ以外は別に古文の教養がなくても何の支障もなく読みこなせる。読みにくいとはいえ節のついた言い回しも慣れれば非常に面白く感じられてくる。細かな感情描写もなかなかのもので、これもいいと思った。
ただ、どうも後の方になってくると、事態の深刻さと文章の軽い調子に少し齟齬が出てきてだんだん興が冷めてくる。一応お伊勢に対する恋愛がベースになっているものの、二葉亭本人の唱えた正確な描写に拘りすぎている感があり、読んでいると面白いかというとちょっと微妙だった。途中で著者が投げ出してしまっている(つまり未完)でもあり、知古との諍いや、職の復帰など片づかないところが多く、自分自身で後のストーリーが予想されるほどのところで終わっているのならば良かったのだが、中途半端で不満が残った。
文学的には価値があると読んでいても感じさせられるところがあるが、残念ながら面白いかと言えばそうでもない。資料的な興味がある人は読んでもいいかもしれないが、微妙なところ。
にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)
「たけくらべ」の美登利の姿が印象的でした。生き生きと遊ぶ子供の時代から離れ、遊廓の世界に入らなければならない。当時の哀れな女性の姿が描かれています。一番印象的なのは、やっぱり美登利が鼻緒が切れて困った真如に赤いちりめんをこっそり投げる場面。とてももどかしくて応援したくなりました。とても美しくて切ない作品ですね。
それにしても、貧しさ(金)によって病気で亡くなった一葉さんが、今や5000札になってるなんて一葉さんはどう感じてるんでしょうねー。