どこかで聴いたクラシック クラシック・ベスト101
耳馴染みの曲が多く良い感じでした。弦楽のためのアダージョが個人的に好き。映画プラトーン冒頭曲です。
夜中によく聴いてから寝てます。
ただ曲ごとに音量に差が出てしまうのは致し方なしですか。この欠点がなければ★5つでした。
決定盤!!クラシック・スーパー・ベスト101
まず、音楽は「語る」ことでより楽しみを見出せるものだと思う。
コンサートなどでばったり知人に会って「語る」ことでより話が弾む。楽しくなる。
「聴く」だけでも十分に楽しいのに、「語る」ことでより楽しさが増す−
クラシックはそこがいいのだ。
そして、誰にでも経験があるのではないか、
「この音楽はよかった」とかなんとなく、漠然とした表現しかできなかったことが。
そして、ちょっと評論家ぶって「あそこはね、あの吹き方は間違ってるよ」とか言ってみても、いまいち会話がかみ合わなかったことなど。
だから、人が音楽を語ったり、評論したりするのは自由だし、大いにすべきだと私は思う。
作曲家やオーケストラの批判も別にあっていいと思う。
私にも実際、その偉大さは認めたうえでだが、嫌いな作曲家はいる。
敢えて言うなら、サン・サーンスが人間的に大嫌いだ。バッハは自分にはどうも合わない。
しかし、両者とも明らかな音楽的天才(とくに後者は)であるのは承知しているので、敬意は示している。
音楽学者の岡田暁生氏は著書「音楽の聴き方」にて次のように述べている。
>音楽は聴くものであると同時に読むもので、「学習」を必要とする。
>これが意味するのは音楽に国境があるということに他ならない。
>サウンドとしての音楽は国境を越えるだろう。
>だが言語としての音楽は文法と単語をある程度知らなければ、 決して踏み込んだ理解はかなわない。
>記号的な音の使い方は西洋音楽に限ったことではなく、
>無数に例があるが、私にはそうした知識がない。
>故に「サウンド」としか聴くことが出来ず、理解が深まっていかない。
<中略>
>西と東では、音楽の理解の仕方が違う。
>我々は音楽について「上手い・下手」と形容する。
>しかし西洋には上手い・下手とかそういった類に相当する語は見つからず、
>強いて言うならテクニックが良い・悪いとなる。
>文化が異なると音楽の語り方まで違うということだ。
その通りだと思う。
だから我々がモーツァルトを理解しようというのは難しい話である。
また、地元の同じオーケストラと作曲家は、時代が離れていても相性が良いことが多い。
その国の人間しかわからぬことがある。
我々日本人は大地震の時でさえ、秩序を守り行動したが、
なぜ外国メディアはこぞってそれを報道し、称賛したか?
我々には当然のことで、理解の範疇であっても、彼らにはそうでなかったからであろう。
日本人にしかわからぬことはやはり存在する。
それが音楽においてもそうである、そういうことだ。
そしてさらに、偉大な先人の作品の完全なる理解は不可能だと考える。
カントの三大批判書を完全に把握し得るものがこれまでにいただろうか?
私は高校生のとき三大批判書のうちの「判断力批判」と「純粋理性批判」に出会ったが、
初めて「文法的には正しいのに、何を言っているのか1行すら分からない」
いや、下手すれば
「1行どころか1行のうちの1単語すら分からない」日本語に遭遇した。
国語が得意だと自負していた私には衝撃的であった。
ちなみにいまも、何を言っているのかあまりわからない。
私の哲学的センスもそんな程度のものだし、哲学の勉強をしていないので仕方ないが、
名を残した著名な哲学者でさえ、あまりの難解さに放り投げたとか。
要するに、芸術音楽の中心地・発祥地はあくまで西洋だから、
外国人である我々には最初から理解できない部分が存在し、
さらに理解できる部分においても、
音楽教育を受けていない者には到底理解しえないものである、ということだ。
私は冒頭で、作曲家・オーケストラへの批判はあっていい、と言った。
しかしここで、実際にそういう方が居るから言うのだが、
勘違いをなさらぬよう一石を投じたい。
「音楽への冒涜」「音楽についての正しい理解を阻害する」という批判は一体何なのか?
モーツァルトを聴いて誰しもが「おお、この曲の素晴らしいところは〜」と
誰しもが同じことを感じると思っているのだろうか?
曲が気に入らなかったり、別の点を褒めたりした人は
音楽について正しく理解できていない、とでも言うのだろうか?
音楽についての各々の理解が画一的であるなど、あり得ない。
私は「語る」ことがクラシックの楽しさを増す方法だと言ったが、
しなくても十分に楽しいので、それでもよいと考えている。
小難しい解釈論や音楽についての正しい理解?なるものは、
演奏家や指揮者に任せておけばよいのだ。
単純に楽しむだけの私を含む大衆は、聴いて感動し、語り合うだけでよい。
それだけでも十二分に楽しいからだ。
むしろ、
クラシックファンにはよく見受けられるが、
曲をたくさん聴いてきただけで調子に乗ってつけあがったり、
生半可な知識で教育も受けていないものが、
音楽の解釈論がどうだ、
音楽の正しい理解がどうだなどと口にするのは、
誤った解釈を生み、それこそが作曲家への冒涜、音楽への冒涜ではないか。
ヴェルディ、ベルリオーズ、シューマン、マーラー、ジョプリンなど
数多の作曲家たちは自分の作品が自分の思い通りに演奏されることを望んでいた。
例えばヴェルディは「演奏者が作曲家のまさに書いたとおりに演奏してくれれば私は満足である。
しかし困ったことに演奏者と言うのは作曲家の書いたものから外へ出ようとする…。
しかし私の思い通りに演奏したものは1人もいない。1人もだ!」と
書いている。
いかに偉大な作曲家達が誤った解釈を嫌い、またその作品が被害に逢ってきたか。
歴史に呑み込まれて、優秀な音楽家達が亡命をせざるを得なくなった結果、
残った、指揮者の中でさえも自らをオーセンティックなどと称して、
聞くに堪えない、無残な演奏を
垂れ流したものが多数いる国が実際にあったではないか。
この類のCDを「音楽に対する冒涜」などと批判する者は愚かさにおいて、
そういった連中となんら変わらない。
「音楽を理解している」と強い思い込みがある点においても同様だ。
手軽に、クラシックを楽しむ人が増えてむしろ喜ぶべきことではないのか。
モーツァルトやバッハがいかに偉大なのか、どう偉大なのか、
少しでも曲に触れて理解しようと挑戦する人が増えるのは彼らのファンとして嬉しいことではないか!
「音楽の正しい理解」なるものが阻害されるなどと詠い、
批判を展開している者は、
自分の音楽への理解を今一度疑い、
むしろ自分の明らかにゆがんだ解釈により偉大な作品を貶めている事に、
早急に気づくべきである。
思いあがるのもほどほどにしなければならない。
どうせ見栄を張るなら、パソコンの前でなく、人前で張って恥をかいたらよろしい、とアドバイスを添えておこう。
ただ、有名どころの抜粋はメーカーも大変まずい手に出たものだ。
せめて1楽章単位で、出来れば1曲単位で収めるのが基本かと考えている。
ヘンデル オラトリオ《メサイア》全曲 [DVD]
ポール・エリオットやエマ・カークビーの映像を見たくて買いました.30年近く前の映像なので,ホグウッドを始めそれぞれが若いのに感心しました.アップが多く映像的にはイマイチかもしれないが,ライヴ映像ではないので,聴衆もおらず全体映像ではあまり見所がないのでやむをえない面があるのかなと思います.ただ時々工夫を凝らしたウェストミンスター寺院のすばらしい映像もあるので,映像ソフトとしての価値はあるように思います.映像面ではかろうじて☆3つでしょうか.ただし演奏はすばらしい.管弦楽と女声陣のすばらしさは現在発売されているDVDソフトの中ではトップクラスでしょう.バス歌手は有名歌手ですが,技術的には以前から感心しない人です.ただこのときはまだ若いだけあって,この人の中ではいい方でしょう.映像的にはBrilliant Classicsから出ている廉価DVDが演奏も良くこれまで愛聴していましたが,演奏重視の場合には,このDVDを聴くだろうと思います.
宮廷の音楽
ルネサンスから絶対王政期にかけて学校の歴史の授業では習うことのない、より現実的なヨーロッパの宮廷の様子を感じさせてくれる本です。
多くの絵がふんだんに取り入れられており、王や貴族たちが踊る様子、オペラや劇などを楽しむ様子、など当時の「良い趣味」のありようがよくわかります。
それと同時に当時の人々が芸術に対してどのような感じ方をしていたのか、たとえばフランスではオペラがどのように受け入れられていたのか、イタリア趣味に対する反応は、など当時の人々の生の言葉が記載されています。
さすがにホグウッド氏の造詣は深い。こういったバックグラウンドがあって初めて優れた演奏ができるのでしょう。
さて、なぜルイ14世は『太陽王』と呼ばれたか? それは彼が若い時『夜のバレエ』という作品のなかで『太陽王』の役を踊ったからです。
この本ではじめて知りました。