サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)
女性しか登場しないところがミソ。
戯曲なのでサド侯爵にまつわる女性たちの話により、奇怪な行動をとる公爵の人間像が浮かび上がってくる。
貞淑な夫人がその夫とともに、世に言う悪徳に堕ちていく。
公爵の自由な振る舞いが、彼の創りあげた世界だと信じ込んで・・・。
誰の忠告も耳には入らない。
そんな夫人にもやがて目が覚める時がきた。
革命が終わり、新しい時代が到来したのだ。
皮肉にも時代が公爵の味方となったのだ。
しかし、夫人は・・・
あらゆる悪をかき集めて天国への裏階段を手に入れた夫と決別の意を表する。
結局、わが身を、我が心を尽くしぬいたけれども、公爵のみが手に入れたものに拮抗でないことを思いしったのである。
時に、勝手気ままに生きた人間に時代は味方する。
価値観が入れ替わったとき、何が残るのか・・・。
自分は何を信じるのか・・・。
本当の自分とは・・・。
『親や世間から与えられた遠眼鏡を逆さに使ってみている。健気にも世間の道徳やしきたりの命ずるままに逆さに眺めた遠眼鏡は家のまわりのきれいな草や花をなおのこと小さく見せるだけ。でもある日、今まで眺めていた遠眼鏡は逆さで、本当はこんな風に小さな方ののぞき口に目をあてるのが本当だという転機がやってくる。そのとき、今まで見えなかったものが突然如実に見え、自分の世界が広大ですべてが備わっていることを知る。』
「自由」を思いっきり想像させるフレーズが印象的でした。
サド侯爵夫人;わが友ヒットラー
三島由紀夫さんの戯曲2編。
「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」です。
しかし、今読んでも凄いですね。
「サド侯爵夫人」は女性のみのドラマ、「わが友ヒットラー」は男性だけのドラマ。
そして、女性は女性らしく、男性は男性らしく魅力的に描かれている。
(「わが友」の男性陣は少し感傷的かな)
作家は往々として心の中に“男”の部分と“女”の部分を持っているそうだが
やはり三島由紀夫さんもその分には漏れなかったと思う。
「サド侯爵夫人」はあのサド侯爵夫人であるルネの物語。
女の愛だけではなく赤裸々な性のドラマも台詞にある。
純愛も変態な肉欲のお話も含めているのに、終始上品な美文を感じる。
だが、この物語の真の物語は決まりきった道徳感情を持ちながら
やや俗物めいた部分もある母親に対する娘の反逆心だ。
化け物サド侯爵も妻の反抗心の依り代でしかなかったという意外な結末。
「わが友ヒットラー」は文字通り、アドルフ・ヒットラー政権確立の物語。
わが友と呼ぶのはアドルフの盟友、突撃隊隊長のエルンスト・レームだ。
政権維持のため、政財界の妖怪グルップに追い詰められて、
アドルフは人の良い友人エルンストを粛清する。
ラスト、化け物がそれ以上の化け物と化したアドルフを見て驚愕するのが皮肉。
しかし、サド夫人の女性陣よりもエルンスト・レームの軍隊論の方の語りの方が
ゾクッとする色気を感じる。
女性はとどのつまり現実部分を忘れないが、男は永遠の夢想家。
そんなことを三島さんは考えていたのかな?
「サド侯爵夫人」は海外公演もしているそうだが
「わが友ヒットラー」は舞台化されたことはほとんど無いらしい。
と、思ったら今年公演した劇団があったみたいですね。
でも海外で映画化した方が面白い・・・と、思ったけど、やはり原作で読むのが一番かもしれない。